大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋地方裁判所 昭和50年(ワ)1058号 判決 1979年5月14日

原告

趙顕五

原告

趙顕成

右両名訴訟代理人

林光佑

被告

株式会社フジコー

右代表者

小林二郎

被告

富士工業株式会社

右代表者

柏村敬二

右両名訴訟代理人

安井慎三

主文

一  被告らは、各自、原告趙顕五に対し金四三四二万一四七六円、原告趙顕成に対し金一四〇万円及び右各金員に対する昭和四九年八月九日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

二  原告趙顕五のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、原告趙顕五と被告らとの間においては、原告趙顕五に生じた費用の五分の四を被告らの負担とし、その余は各自の負担とし、原告趙顕成と被告らとの間においては、全部被告らの負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

一(事故の発生)

<証拠>を総合すると、請求原因1の事実をすべて認めることができ、右認定に反する証拠はない。

二(被告フジコーの責任)

1  <証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  本件事故は、訴外石丸嘉弘の従業員訴外関一彦が、被告フジコーの従業員から指示を受けて、被告フジコーの営業所所在地であつた神奈川県相模原市内から福井市内へ、被告フジコー製造に係る家庭用流し台を加害車で運送する途中において発生した。

(二)  訴外石丸は、昭和四八年一二月ころから被告フジコーとの運送取引を始め、当時、被告フジコーに入つて他の業者に比し仕事ぶりが良かつたことから、被告フジコーとの取引が急速に拡大し、事故当時においては、同被告の全製品輸送量の六、七割を取扱うに至つていた。ところが、いわゆるオイルシヨツクののち、昭和四九年一一月ころ以降、被告フジコーからの運送注文が途絶えたことから、訴外石丸は、経営維持が難しくなり、昭和五〇年二月に至つて倒産に追いこまれた。

(三)  本件加害車は、訴外石丸が特別に購入したロングボデイー車で、被告フジコーとの間に専属の傭車契約こそなされていなかつたものの、本件事故の際に加害車を運転していた訴外関がほぼ専属的に使用し、同人の契約した駐車場に保管していた。そして、右訴外人は、被告フジコーから予め発注がなされたか否かにかかわらず、連日のように午前中同被告の出荷場所前に加害車を待機させ、時には訴外石丸からの指示を経由することなく直接同被告から注文に応じ、午前中に注文のない場合には、そのまま訴外石丸のもとに赴くことなく帰宅するという作業状態で、加害車に限つていえば、その取扱い貨物の約九割が被告フジコーの製品であつた。

(四)  加害者のボデイーには、事故当時、被告フジコーの商号、商標、商品名等が記載されていたが(右事実については当事者間に争いがない。)、これは訴外石丸が、そのような記載をすることによつて被告フジコーの意を迎えるとともに、車両五台を保有し、他人の貨物の運送を業としていながら運輸大臣の免許を受けていなかつた同人において、同被告の車両が自社製品を運搬しているように見せかけようとの意図を持つてしたことであるが、同被告の関係者は、同車がほぼ専属的に同被告製品の運送をしていたため、右のような記載が同被告にとつて格別の不都合はなく、かえつて、その製品の宣伝に役立つとの配慮から、積極的にこれを許容した。

以上の事実が認められ、<証拠判断略>。

2  右1における認定事実によれば、訴外石丸は、被告フジコーからの指示のもとに、ほぼ専属的に、同被告の注文による運送業務を営み、経済的にもつぱら同被告に依存していたこと、とりわけ、加害車については同被告側関係者の容認のもとに同被告に所属するような表示がなされたうえ、もつぱら同被告に関する運送に使用され、同被告の注文に基づく運送中に本件事故が発生したことが認められ、これらの事実によれば、被告フジコーが加害車について運行支配及び運行利益を有していたことを肯定することができ、同被告は本件事故により原告らに生じた損害を賠償する義務がある。

三(被告富士工業の責任)

<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

1 被告富士工業は、昭和一六年に設立された従業員約一〇〇名(昭和四六年当時)の会社で、弱電関係の大手企業の下請けとしてプレス加工を主業としていたが、昭和四四年から厨房製品の製造に進出した。その後、昭和四五年七月、右製品の販売を目的として、被告フジコーが設立されたが、被告フジコーは、その総発行株式の九割を被告富士工業に、その余を被告富士工業の役員らに保有され、被告富士工業のいわゆる子会社として発足し、設立時から昭和五〇年七月までは、被告富士工業の代表取締役である柏村敬二がその代表取締役を兼ねていた。

2 被告富士工業においては、昭和四七年一二月、消費者からの要求を適切に製品に反映させることを企図し、製造部門と販売部門を統合してともに被告フジコーに扱わせることとし、被告富士工業から厨房部門を分離して被告フジコーに移管したが、その際、被告富士工業の右部門の管理職、作業員をそのまま被告フジコーに移らせ、従来の場所で被告フジコーの従業員として被告富士工業の設備を利用して生産を続けさせた。

3 事故当時、被告フジコーは川崎市内の被告富士工業の工場跡に、わずか建坪六坪の本社社屋を有していただけであつたが、そこでは一、二名の従業員が働いていたのみで、事業活動のうち厨房製品の生産は被告富士工業の工場でその設備を借用し、また、その経理等の事務は相模原市内の被告富士工業の本社社屋内で、その代表電話を共用して行つていた。また、被告フジコーの従業員は、被告富士工業の従業員と同一の制服を使用していたため、部外者はその胸の名札によらなければ、両社の従業員の区別をなし得なかつた。被告フジコーと外部との通信には、被告富士工業の事務用紙、封筒が使用されることもあつた。

4 本件事故後の昭和五〇年初頭ころ、被告富士工業の代表取締役柏村敬二は、被告フジコー内部で設立時から重きをなしていた訴外小林二郎にも何ら相談することなく、被告フジコーの厨房製品の生産中止を含む大幅な事業縮小を企図し、同年五月三一日開催の被告フジコーの取締役会で右事業縮小を承認させ、被告フジコーの棚卸資産、機械設備、什器備品、売掛債権等を被告富士工業に譲渡することを決定させた。この結果、被告フジコーの厨房部門の管理職、作業員約三〇名の半数が被告富士工業に移転し、残る半数は退職した。右の機械設備等については、これを被告フジコーから被告富士工業に売却するとの譲渡契約書が作成されたが、同契約書には、売買代金の一部を被告富士工業から被告フジコーに対する貸付け金等と相殺したうえ、被告富士工業がその残額六九一三万〇九三六円を昭和五〇年一一月三〇日に、被告フジコーに支払うとの約定が記載されておりながら、被告富士工業からの多額の右貸付け金は存在せず、また、右差引き七〇〇〇万円近い残代金債務の支払いもなされた形跡はなく、右契約書は単に税務対策上形式的に作成されたに過ぎなかつた。

<証拠判断略>

右に認定した事実によれば、事故当時、被告フジコーは、法形式上は被告富士工業とは別個独立の人格を有する会社であつたけれども、その社会的実体は、単に被告富士工業の厨房の生産、販売を担当する一部門であつたと認めることができ、右事実と先に二において検討したところとをあわせると、被告富士工業もまた、加害車につき、運行支配及び運行利益を有していたことになるので、同被告は、本件事故により原告らに生じた損害を賠償する義務がある。

<以下、省略>

(白川芳澄 成田喜達 黒木辰芳)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例